2008年11月29日 常陽リビング(タウン紙)

 「常陽リビング」WEB

かしてつが遺した街のカタチ

かしてつバス応援団と鉾田駅保存会+演劇班赤眼鏡

  右から栗又衛さん、かしてつバス応援団の生徒たち、荘司直哉さん(小川高校下駅で)

霞ケ浦湖岸を縫うように石岡―鉾田間27・2キロを走っていた鹿島鉄道(通称かしてつ)が廃線になって1年半余。現在、駅舎はほぼ取り壊され線路は撤去、一部の車両は鉄くずとなり郷土の風景は一変した。7年前の存廃問題浮上でいち早く存続運動ののろしを上げたかしてつ応援団や、歴史ある車両を残そうと奮闘した鉾田駅保存会は今、交通の足という枠を超えたかしてつの魅力を新しい街づくりに生かそうとしている。

当時小川高生徒会担当教諭だった栗又衛さんが廃線の報を聞いたのは01年暮れ。生徒たちに存続運動を持ち掛けると電車通学の生徒はもちろん「自分は乗らないけど、利用する友達のために」と自主性と一体感が生まれた。

栗又さんはローカル線を生かした街づくりを考える「鉄道街づくり協議会」にも参加し、全国の不採算路線が地域の協力で持ち直した例を研究し、高校生にできることを探った。翌年夏、近隣の中学・高校に呼び掛け「かしてつ応援団」を結成。「未来へ走れ!鹿島鉄道」を合言葉に募金や署名など運動の輪を広げた。

05年には霞ケ浦の青をイメージしたリストバンド「かしてつブルーバンド」を作製し沿線のスーパーで販売。自分たちが必ず復活させるという一心だったが、街頭に立つ生徒に「いくらやっても無駄」と冷たく言う大人もいた。というのも、廃線の一番の原因が高校生の力の及ばないところにあったからだった。

かしてつは、常磐線経由で石岡駅から榎本駅まで運ばれ百里基地に送られる航空燃料輸送がその収益の大半だった。しかし会計検査院の調査で「税金の無駄遣い」とみなされ02年春に輸送はストップ。乗客減とのダブルパンチに遭った。

「今の時代、経費削減と言われたら何も言えません。ただ、かしてつは『ただの不採算路線』ではなく地域の産業遺産ですよ」と語気を強めるのは鉾田駅保存会の川津重夫さん。当時全国最古の気動車だったキハ601(昭和11年製)を買い上げた同保存会は週末ごとの点検作業や鉾田駅駅舎(現在は廃駅)周辺の美化運動などに汗を流している。


川津重夫さん(右)と新堀浩司さん(鉾田駅のキハ601で)

そんな同会に今年2月、一通のメールが届いた。差出人は東京の劇団「演劇班赤眼鏡」で脚本・演出を担当する新堀浩司さん。「車両を舞台にした演劇をしたい」と持ちかけた新堀さんは鉾田市の出身で、幼いころかしてつに乗ってよく石岡まで遊びに行った。大学進学で故郷を離れ数年経つが、廃線を知った時の複雑な気持ちは忘れられない。

「なくなるはずがないと思っていたのに、なくなってしまった」。悔やんだところでなくなったものは二度と戻らない。それならば「手狭な車両で役者の息遣いが伝わるような舞台を」と、前向きに東京と鉾田を往復する日々が続く。演劇「Railroad Theater」は12月6日(土)と7日(日)、旧鉾田駅跡地で行われる。

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廃線後、沿線の生徒の足は代替バスに替わった。石岡商業高教諭の荘司直哉さんを顧問に新たに結成した「かしてつバス応援団」がオリジナルキャラクター「かしてつバスくん」の塗り絵を車内に展示し、将来的には地域住民の芸術作品を展示する移動ギャラリーとして走らせたい。少子化の影響もあって乗車率はかしてつに比べ6割減ったが、行政に働きかけ玉造町駅と常陸小川駅跡にバス停屋根とベンチを設置し、利用者増への地道な努力が続く。

現在石岡一高で教べんを執る栗又さんは廃線から学んだことを授業に生かしている。タウンウオッチングと称して石岡の街並みを歩き、地域住民から歴史を教わり、本当の意味での「街のにぎわいや活性化」とはどういうことなのかを高校生と一緒に考えている。「かしてつの存続は郷土の街づくりと一緒に考えていかなければならなかったということだったんです」。

かつては1時間ごとのガタンゴトンという音で沿線の農家や湖畔の漁師は休憩し、仕事を終え家路に就いた。通院・通学はもちろん鉄道ファンの憧れであり、走っていること自体に価値があった。「鉄道は人間が造った機械。でも、伝統工芸や方言と同じ地方文化そのものではなかったでしょうか」と栗又さん。効率優先の社会で郷土の風景は変わったが、かしてつを愛した人々の心の風景が変わることはない。残された者の夢を乗せた列車は、もうすでに走り始めている。